埋立地 その2

平成27年度の受験シーズンも終盤となり、無事に終えた方、発表を待つ方、最後の追い込みの方、様々かと思います。さて、当ブログでは相も変わらず、ちょっと間が空いてしまいましたが、横浜の埋め立て地について続きをお話しましょう。今回は江戸中期に関する入試問題つきです。

根岸駅に降りてみると、根岸線の線路を挟んで海側に工場地帯がありますが、かつては磯子区から続く遠浅の海になっていました。では、この海が埋め立て前はどんな海だったのかを見てみましょう。

まず、今の姿からは(一部釣り好きを除いて)想像しづらいのですが、魚が豊富であったため、漁業が盛んな地域でした。大正時代頃からは底引き網漁によってカレイ、イカ、アナゴなどが水揚げされていたといいます。
また、江戸時代に品川で始まったノリ生産が大井、大森、川崎と南下し、大正の初めには根岸湾の屏風ヶ浦でも行なわれるようになりました。遠浅で波が立たず、水温も適していたという好条件により、ノリ養殖の最盛期には16.5ヘクタール余り(東京ドーム約3個半分)の養殖地があったそうです。
さらに遠浅の海は貝類の生育にも適していて、大正10年頃から養殖が行なわれたほか、一般市民が潮干狩りを楽しめるように整備も行なわれていました。

このように、概ね大正時代頃までに水産業の環境が整えられていったほか、自然の浜が残されていた時期には海水浴場としても栄えていて、昭和8年当時13ヶ所の海水浴場が整備されていたそうです。

遠浅で波が穏やか、という環境はかつての江戸前の海を彷彿とさせます。ですから、明治に入って江戸が東京になり、東京湾の環境が激変して行く過程で、江戸で行なわれていた水産業は、根岸湾に移動して引き継がれていった、と言えるのかもしれません。

*ではせっかく江戸期の水産業の話をしたので、関連する大学入試問題を。カッコの中に入る地名はなんでしょう?

・上方から伝えられた上方漁法のうち、地曳網が【  】で成功し、大量の鰯がとれ、加工した干鰯は金肥として西日本にも普及した。

次はこの豊かな根岸湾が、工場地帯に変化する過程について。

*カッコの中は九十九里浜です(ドラッグしてください)。干鰯も代表的な金肥として、江戸産業史で頻繁に聞かれますね。